【松本律子マリンバsoloコンサート2019春】への感想文をいただきました。
全文公開いたします。
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春のまだ寒い夕暮れ、青い水の水槽の底から月を見上げるような時間。今日の月は海月のような形。久しぶりの駅、初めて歩く街。川は見えない。
着席。木の壁。森の中のコテージの夜中の音楽会に招かれたような設えだ。どんな色の衣装で現れるのだろう。かぶりつきに座っちゃって邪魔かな、でも目の前で見てみたい。
音の始まり。一緒に森の中を散策しているよう。で、ふと空を見上げると異次元が始まる…ような。そんな動画も作れそう。
音、拍子、リズム、乱れ、ゆらぎ、うねり、ねじれ、間、重なり。
私は、「ギターとベースとドラムズとボーカル」というよくある構成とか、「イントロAメロBメロサビ」というよくある展開とか、「音程が全く狂わない正確なピッチの」、とかの定番“ではない”ものに出会えるとわくわくするから、だからなお松本さんの演奏が楽しいのかも。ドとド♯の間の音が聞きたいとかの、その楽しみがたっぷりある。
曲の最後に足音。あれは誰か。 「うるさいよー、」と来た隣人かもしれない、何かが来る緊張感。現実に引き戻される足音。気付くと曲が終わっている。音楽会は始まっている。
11月の演奏会とはまたかなり違う濃密さ。何か変わった?
そことそこが重なって和になるのかという驚き。構成の凄み。例えば別々のタイミングで始まった3拍子と4拍子が、調も雰囲気も違うアダージョとアレグロが、ある地点でハモる!みたいな。しかもさりげなく!
なんとかっこいい!わーーー。すごーーーーーい。なんと ! !
もう色々感じて考えて覚えきれない。覚えておこうとすると音に集中できないから、メモしよう。
仕事をきっかけに松本さんと出会ったけど、義理のお付き合いとかじゃなくほんとに好きだな。なんと楽しい時間。
私が繰り返し通っている演奏会は3つ、松本さんと、ギターの塚本浩哉さんと、ゴスペラーズ。三者ともルーパーを使う。三か所でルーパーを見たのがほぼ同時期だった。ルーパーの登場は、特にソロパフォーマンスに、影響をもたらしているのだろうか。話を聞いてみたい。
音がパッチワークやコラージュみたいだ。このメモも、感想をコラージュみたいに書き連ねてまとめたら、松本さんへ送ってもいいだろうか。いやいや私の脳内の再現なんて気持ち悪いよ。でも面白がられるかも。
そういえば一曲目、森の音について。映画「もののけ姫」の冒頭の森のシーンは、実際に山地で録音された音を使っていると読んだことがある。森とはいえ無音だけど、でも映画で何の音もしないとなぜか気持ち悪くて無音の録音を入れている、というような話だった。
メロディライン、なぜそこはその音を選んだのか?と。初めて聞いた時から毎回それを思う。このメロディならこの音に行く、というところをわざと正確に外される。それにはどういう背景があるのだろう。
『スペイン』の佳境、音の数が少ないのに熱や高まりを感じる。サビでアカペラソロ、みたいな、シンプルなのに凄みがある。老婆の最期の独白のような、音の量だけで言えば静かだけど凄いシーン、みたいだ。
素朴な音もいい。風邪の、鼻詰まりの人が話す言葉が、響かない分声色の表現力が削がれて、朴訥とした言葉のみ、言葉の意味がひきたつのを思い出す。
削ぎ落されたメロディを耳で聞きながら、間や、別の音を、自分の思考で補完している。既知の曲は良くも悪くもそう聞いてしまう。
シンプルにすると生まれる「間」、無いからこそ想像できるもの、次を待つ時間、空間把握。今日は舞台照明とかの演出がない分、音の印象だけで、雰囲気や世界観を自由に想像して創造して補完もして楽しめる。なんて豊かなのだろう。
和音と、外れた旋律、音の隙間を各自のセンスが補っていく。
一曲の中での構成が濃密。11月のコンサートの数倍濃密では。これまでの松本さんの作品でいちばん好き、すごくおもしろい。濃密。何か変わった?
こういうのは、CDより動画向きかも。
はじまりがあって連なりがあってそして広がって、終わる。最後へ辿り着くまでの、予想もつかない展開。この先はこうなっていたのか、と。
コントを作る小林賢太郎の、「オチから作る」の話を思い出す。(「常にオチがどこに行くかわからないってよく言われますけど,それはもうばっちりトリックがあるんですよ。つまり『終わり』から作っているんです。それがバレないように前をつくるんですよ。オチを先につくって,そのオチが見えないよう見えないようにして最後に,ボンッ!って方が気持ちいいですよね。」) そういえばあの本を松本さんはご存じだろうか。紹介してみたい。
どうも、夏の夕べのひぐらしを思い出す。
いつか聞いた森の音。または、中学生の頃聞いた、遠くの吹奏楽部の木管が、マウスピースだけ使ってタンギングの練習をしている音。
夜の森や畦道の、暗闇に何者かが潜む気配と音。コンクリートに囲まれて育つ子どもは、この音をどこで知るのか。または知らないままなのか。もし今日ここで聞いていたらどう感じるのだろう。私は、いつの記憶を用いて今日これを味わっているのだろう。
音の振動が、木の床から足へ伝わってくるのが気持ちいい。
年々、木の枝や葉の形を見るのが好きになっている。芸術品や宝石は何も持っていないけど、野で摘んだ草の一枝はそれこそ芸術品のように美しくてわくわくする。木、森、葉、風、このコンサートにはたくさん織り交ぜられている。そうえいば最近枕元に飾っているドライフラワー、風水的にはドライは良くないとか聞いたけど、やっぱりドライも好きだしどうしたものかな。青い葉もいいし、乾いた枝もいいし、花もいいな。
枝越しに演奏を見る感じがとてもいい。プラネタリウムで、指の隙間から星や映像を見るとぱっと臨場感(?)が増すのと同じだろうか。某みうらじゅんが指の隙間越しに女性の写真を見ると興奮が増すと言っていたけどもきっと同じ仕組みだと思う。とにかく枝のオブジェとマリンバはとてもいい。
枝とマレットがぶつかりそうだが大丈夫だろうか。演奏は、周りの空間は気にならないのか。
あ、律子節だ、聞いたことがあるこのメロディの感じ。旋律の個性って、マレットだからこそのものもあるのだろうか。左右2本ずつの指で弾いたらこうなるのだろうか。ピアノだったら一度に出せる音は最大10前後?、じゃあ松本さんが生で出せる音は一度にいくつ?マリンバ4音とバスドラムくらい?
聞くのが二度目の曲。前に、一度だけだけど、聞いたことがあるのをちゃんと思い出せる。単純なメロディではないし一曲も長いから、情報多過ぎて覚えられないけど(それがまた気持ちいいのだけど)、でも思い出せる。これは何を覚えているのだろう?響き?リズム?
ゆっくりとながらだんだんと展開していって、繋がって繋がって、着地。一曲の「終わり」が、腑に落ちるというか、よくわかる。音楽の終わり方には、盛り上がって終わり、とか、何回も繰り返して終わり、とかいろいろあるけれど、今日聞いているのはどれも到達感や安心感でまとまって終わる。初めて聞く曲でも、過不足なく、「はい、これで、おしまい。」と気持ちよくちゃんと収まる。
時間軸の上に再現されるもの。絵のように一度描き上げたら完成品として置いておけるものとは違い、再現するにも毎回テクニックが必要なもの、例えば話芸、例えばフィギュアスケート、例えば花火ショー、もちろん音楽も。ここであの音が入って、とか、膨大で緻密な構成はどうやって整理するのだろう。
頭の中で聞こえたものを、もう一度現実で鳴らすための技術とか。組み立てを分解して再構築するとか、どういう仕組みなのだろう。
ルーパーで積み上げていく数小節。乗り遅れたらもう一周?
しまった!とかならないのだろうか。緊張はないのだろうか。大縄跳びのような怖さや、あれが入っていない!なんていうハプニングもあるのかも。今まで気づかず楽しく聞いていたけれど。
今日はとても、味わえる。オーケストラみたいに難解なものを「ふーむ」と面白がるコンサートもいいけど、今日はとってもすんなり楽しめる、味わえる、楽しい。めちゃくちゃたのしい。私にもこんなに楽しめる音楽があるなんて、今日はとても幸せだ。
音楽を聞きに行って、すごく心に響く時、自分が共鳴している気がすることがある。自分の中にも音楽のかけらがあって、それが胸の中で騒ぐような。ラピュタの飛行石が目の前にあって、自分の中にも小さな飛行石があって、ピーンと響きあっているような。最初にそのたとえを思いついたのは大学生の時に見た鼓童のコンサートだ。もしかしたら打楽器はその作用(?)が強いのだろうか。そういえば幼い頃にウーハーに抱きついて、耳より先に手で振動を感じるのが好きだったな。最近触ってないな。最近楽器にも触れていない。CDを聞いてもどこかまんねりだ。音楽は聴いても、音楽をすることはなくなっている。音楽でも何でも、大人ならではの表現力があるだろうに。子どもの頃、大人って、初めてでも何でもそれなりにこなせるのがとても不思議だったけど、今は自分もそれなりには大人になった気がする。
とにかく今日はこんなに音楽を楽しめている。2歳の私にキーボードとラジカセを与えてくれた親や、これまでの音楽体験に感謝する。
頭の中でひぐらしをずっとイメージして聞いていたら、ここで!頭にイメージさせられたものが後から演出で登場する。リンクする。おお。
これまで松本さんの演奏を何度も見ているから、違いや進化も感じられる気がする。今日は、何だろう。私が一人で興奮しているだけ?何かが凄い。
今日は、歌手の歌唱よりも、メロディを紡ぐギターソロよりも、もっとすごく味わっている。歌詞を聞かされるのを待つような受動的なコンサートではなく、能動的に聞いて、考えてしまう。と、その一瞬後には音を味わっていたりする。すごくおもしろい。素晴らしい時間だ。みごとだ。自分も表現者の端くれとして、なお感動してしまう。「すべての(音楽への)情熱からさめる瞬間」を知る者としても、なお。
明日は別の演奏会に行く予定が入っているけど、音の記憶を上書きしたくないなあ。行きたくなくなってしまった。
レモン。よく泣かないで読めるなーーー。
11 月に聞いたレモン哀歌よりも今日は数倍響く、泣いてしまう。
智恵子は統合失調だった。どこか、あえて外したようなメロディが智恵子の無邪気さを想起させるような。そういえば智恵子は5月生まれ。
人は一度に何個の音を出せるのかと思ったけど、歌があった !
リズムトラック(に当たる部分)、おしゃれ。ロックだし。何由来?他所の何かの曲で、ガレージバンドで10 分で作ったような代り映えのないリズムトラックを聞くとちょっとがっかりだけど、こっちはすごくいい。クラシックの訓練を受けられた人がかっこいいリズムトラックを使っていたりすると、勝手な先入観だけど、より嬉しく感じる。
短音の連打、目の前でそれを見る緊迫。CD ではこうはならない。
うた。泣けてしまう。HARUHI の『ひずみ』を少し思い出す。
右手の親指近くのマレットは回転している?ヘッドが、見る方向によって色とか濃淡とかが違う毛糸を使ったマレットなら色が変化して見えるのかな。マレットカット、ワウペダルと合わせて使うことはできるのかしら。サスティンペダル使ったらビブラフォンみたいにもなるのだろうか。更に違うフレージングが聞けそう。
最後にまた足音が来た。「大事な人はでき」て、迎えに来てくれたようなハッピーエンドを感じる。
ああ終わってしまった。
すごくよかった!もう一度見たい。耳だけじゃなくて目でも見たい。すごく贅沢な時間だった。動画は撮ってあるのだろうか。ぜひ公開してほしい。叶うなら、できれば一曲ごとに区切らずに全編。人にも見せて、紹介したい。
帰宅。
あ。このコンサートの副題は『コラージュ』だったのか!
翌朝。
とても面白い演奏会だった。
松本さんとの出会いは、小学校の音楽会だった。ジョン・ケージの『In A Landscape』が始まりだった。プラネタリウムでのコンサートも素晴らしかった。おや、ジョン・ケージの『4:33』がYouTube にある。
さて。